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車両基地問題で紆余曲折を経た南北線
そうして具体的な話はまとまらなかったものの、当初の「本郷3丁目〜赤羽」
の路線を延長するような形で、「地下鉄7号線」の計画が、
62年都市交通審議会の答申に加えられた。すぐさま北区議会も建設促進を決定し、
7号線の本格的な誘致運動が始まることとなった。
一方、営団は同年に7号線(目黒〜岩淵町間21.4km)の免許を申請している。
しかしその後、沿線に適当な車庫用地がないことから、
岩淵町(赤羽岩淵の仮称)から先に2.2kmの支線を建設して、
現在の国立西が丘競技場にあたる国有地(兵器廠跡)に、車庫と工場を建設することを計画。
この計画は、車両260両を収容でき、地下2階建てという大規模なもので、
広さは26,000平方メートルとしていた。
岩淵町〜西が丘間は、この国有地と国鉄線を結んでいた、
軍用線の跡地の地下を経由することとし、
途中に駅を設けて利便を図る予定だった。(ちなみに、この軍用線の跡地は「赤羽緑道公園」
として整備されたが、廃線跡の面影は色濃く残っている。「旅と鉄道」誌の「タビテツ探検隊」
にも取り上げられている。)
73年2月、営団はいわゆる「西が丘車庫」の測量を、同年3月15日と17日に実施する旨、
住民に通知した。ところがこれに、西が丘周辺の住民をはじめ、
通過地点にあった都内最大級のマンモス団地である桐ヶ丘団地の住民らの一部が、激しい反対運動を展開する。
これは、営団がこれまでの計画のなかで、一度もその計画を住民に知らせることなく、
突如として測量を開始しようとしたためとされている。
| 【地点1】専用線の跡地は、現在の赤羽緑道公園。廃線跡であることを強調してあり、動輪や線路のモチーフが随所にみられる。 |
| 【地点2】引込線があった赤羽台団地の入口に、なぜか1本だけ残っていた線路。団地の建替えに伴い'04年に撤去されてしまった。現在ここは戸建住宅に。 |
| 【地点3】国立西が丘サッカー場。今では高校サッカーの聖地といわれるこの場所も、順当なら地下鉄の車両基地になっていたのである。 |
住民運動の動きに対し、北区側は3月12日、営団に対し説明を要求。
続いて住民側も3月18日、八幡小学校にて「7号線支線建設反対」の大会を実施する。
内容的には、上述のような突如としての測量開始に対する営団への強い不信のほか、
西が丘支線が建設される予定の旧軍用線周囲の地盤が弱く、
周辺環境への悪影響に対する懸念が強かったことが中心であった。
また、72年の都市計画審議会で、7号線は将来、
岩淵町から埼玉県浦和市東部への延伸(現在の埼玉高速鉄道)が妥当との答申も公表されており、
それが実現した際に、この西が丘支線は、現在の千代田線北綾瀬駅のような状態になる可能性が強かったことも、
住民の理解を得がたかった理由のようだ。
しかしこれに対して、地元の北区議会は、
7号線そのものの建設を推進してきた立場から窮地に立たされ、
住民と営団、さらには北区との間で、話し合いが紛糾する場面も多かったようだ。
その上、隣接する板橋区も3月27日、
この車庫建設予定地が住民の避難場所として指定されていることを理由に、
首相あてに「建設に当ってはそのことも考慮して慎重に」という内容の意見書を提出。
同29日、北区議会は本会議で、西が丘支線と車庫に反対の請願、陳情を受理した。
同年4月1日、北区議会は、建設を進めたい区長サイドと、
住民サイドの考えの相違による行き違いもあって紛糾するなど大混乱となったという。
区側は、避難所問題の解決のため、26,000平方メートルの土地のうち、
1万平方メートルを車庫用地とし、残りを公園など避難用地とする、規模縮小の方針を打ち出す。
営団側も折衝案を提示。当初、留置線(車庫)の規模を、「約半分を地下、半分を地上とする」
という計画だったものを、「全て地下とする」ように変更し、
地上部には330平方メートルの施設のみとする方針を打ち出した。
これを受けて、74年7月29日、北区議会は営団の方針に同意の決定をする。
直ちに、営団は西が丘車庫の測量を開始することとなった。
また、途中に駅を1箇所設けることも確約した。しかし、やはり住民の反発は根強く、
訴訟にも発展したため、測量のための立ち入りができないまま、
77年11月5日、測量期限が切れ、また営団もその再申請を見送った。
この段階で、事実上、計画の白紙撤回という事態に至ってしまう。
82年9月、やむなく営団は西が丘車庫の建設を棚上げし、
神谷橋(王子神谷の仮称)に隣接する神谷堀公園の地下に留置線を検討。
北区議会にこれを打診し、区側もこれを了承した。結果、当初の計画とは大きくかけ離れて、
わずか40両収容の小さな留置線を建設することになった。これがのちに、
南北線の運用にしわ寄せを生んでいることは言うまでもない。
舎人線への先鞭となった南越谷への分岐線計画
この間の80年5月、足立区は、7号線を駒込で分岐させ、上中里(1)〜上中里(3)〜堀船(3)〜
宮城(2)〜江北(2)〜舎人公園〜舎人(4)を経由し、最終的に南越谷に至る、
16.2kmの路線について、建設大臣に陳情を行っている。都内区間9.0kmは地下鉄、
埼玉県内7.2kmは地上とするなど具体的な計画も練られて、同区の試算では、
90年を開業目途として、同年の一日当たり平均利用者数を37万人と予測。
開業から15年で黒字化するとした。83年にも、舎人までの延伸について、
足立区長が営団総裁に陳情するなど、活発な活動が続けられていたが、
結局実現していない。ただし、このうち一部ルートについては、現在、
新交通「日暮里・舎人線」として建設工事が進められているのは周知のとおりである。
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