赤羽南〜浮谷(北)
浮谷バス停〜岩槻北口
日の出町〜菖蒲駅予定地
写真にみる川口今昔Part.3

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 【1】赤羽南〜浮谷(北)

◆赤羽南
 武州鉄道は、その終点の予定地を、川口・蕨・赤羽などと繰り返し変更し、また初期には千住への分岐線や、一時は巣鴨への延長を構想していたという歴史があるが、このうち、赤羽への乗り入れについては実際にかなりの進展を見せた時期がある。赤羽駅構内が狭隘であることや、地価が高くなったことから、鉄道省が所有していた専用線の跡地を購入し、赤羽駅に向かうこととしていた。実際、その払い下げ代金の一部を、鉄道省に収めていたという経緯がある。このため、この廃線跡は、厳密には武州鉄道のものではないとも言えるが、都内で見られる唯一の名残として紹介しておきたい。

※地図上の「赤羽南1-1」と「同1-2」の間が左写真の地点。そこから「赤羽南2-15」にかけて廃線跡がある。その下に見える大きなカーブを描いた道路は、上記の専用線が廃止された後、代替に建設された専用線の跡。専用線は、当初北へ曲がっていたものを、南へ曲がるように変更されたのだが、その時廃線になった北への線路跡を、武州鉄道が購入しようとしていたのである。

※右写真Mapiongoogle
赤羽1
微妙なカーブを描く道路 奥に見えるJRの線路に吸い込まれるように続いている
東京都北区赤羽南 '06.5
赤羽2
道路を斜に越える 奥に見えるタクシー会社の車庫の角度に注目
東京都北区赤羽南 '06.5

神根
神根駅の夢のあと…
川口市大字石神 '06.5

◆神根
 昭和12年から13年の路線廃止までの間、武州鉄道の終点となっていた「神根」駅は、現在の国道122号線「石神」交差点付近に存在していた。
 写真は国道122号線の石神交差点で、正面が東京方、背後が蓮田方面。ここから武州野田までの区間は、現在の国道122号線の上り線が、そのまま線路跡ということになる。
 神根の駅があったのはこの交差点の向こう側、カツ丼屋や牛丼屋が建っているあたりとされている。この神根より先、赤羽方面への延伸の夢は、幻に終わってしまったのである。


あいだや
武州大門駅前の食堂「あいだや」
さいたま市緑区大門 '02.1

◆武州大門
 昭和3年から12年まで、武州鉄道の終点となっていた「武州大門」駅は、現在の国道122号線「大門」交差点付近に存在した。写真に写っている食堂「あいだや」は、当時から営業していた駅前食堂といわれる。当時、線路は左側に見える国道122号線の場所を通っていて、「あいだや」はその線路の反対側で営業しており、現在の店舗の場所は当時住居として使用していたといわれている。


重殿社1 重殿社2
重殿社に残る「停車場道路工事記念」の石碑
さいたま市緑区中野田 '02.8

◆武州野田
 武州大門までの開業と同時に開設された「武州野田」駅は、現在の東北自動車道浦和料金所すぐ北側、切り通しの中に存在していた。その武州野田駅のすぐ東側、「重殿社」(じゅうどのしゃ)と呼ばれる神社の敷地内に、「停車場道路工事記念」と彫られた石碑が残っている。この「停車場道路」とは、集落と駅を繋ぐための道路と思われる。
 石碑の裏側には、道路工事の経緯や関係者の名前が彫り込まれており、昭和3年12月に駅が開業したのを受け、地元青年団の手によって翌昭和4年3月17日に起工、4月25日に完成したとの記述がある。


寺山1
南側最初の遺構は駐車場
さいたま市緑区寺山 '02.1

◆寺山
 ここまで紹介した、神根駅跡から埼玉スタジアム付近までは、国道に吸収されてしまい、その痕跡は消えてしまっている。線路の跡が姿をあらわすのは、ここ、さいたま市緑区寺山付近から。122号線上りのガソリンスタンド「JoMo」がある陸橋付近で東に分かれ、その先は自動車用品店「オートウェーブ」の駐車場となる。これが線路跡で、不自然なまでに細長い形態をしているため、判別は容易だ。(なお、この場所へは、オートウェーブ側からしか入れず、122号側から入ることはできない。)


◆伝右川(でんうがわ)
 オートウェーブの駐車場を抜けるとすぐ、伝右川という小さな川が流れているが、ここに武州鉄道の橋台の一部が残されている。武州鉄道の遺構が、そのままの形で残っているのはここだけで、今となっては非常に貴重な遺構である。しかし、この場所は浦和美園駅周辺を開発する「みそのウイングシティ」の区画整理事業の範囲に含まれているため、取り壊されるのも時間の問題かもしれない。

伝右川1
伝右川に残る橋台の北側部分
さいたま市緑区高畑 '06.5
伝右川2
南(左)側の橋台はわずかに残るのみ
さいたま市緑区高畑 '06.5

綾瀬川1
綾瀬川 ここに橋がかかっていたはず
さいたま市緑区高畑 '01.10

◆綾瀬川
 上記の地点より北へ100m程で、線路は綾瀬川を渡る。しかしこの部分は、既に護岸工事等によって手が入れられており、遺構らしきものは確認できない。以後、武州鉄道の痕跡を「形」として残すものは、残念ながら存在しないようである。やはり、戦争を挟む70年近い年月は長すぎたということだろうか。
 ここでは、正面の、自動車が並んで止まっている駐車場の敷地が、もとの武州鉄道の敷地だった部分。カメラの位置から対岸へと、綾瀬川を渡る橋が架かっていたと思われる。


◆笹久保
 綾瀬川を渡り北へ進むと、県道との交点付近が「笹久保」駅が存在していた場所である。このあたりは現在、長閑な農地の中に廃棄物処理場などが雑然と立ち並んでいる。左の写真は、線路跡が細長い駐車場として利用されているもので、右奥に見える民家の手前で道路と交差している。ここが笹久保駅のあった場所と推測される。右の写真がその場所で、更にこの先、線路跡は一直線に北へと延びている。

※左写真Mapiongoogle
笹久保1
細長い駐車場となった線路跡
さいたま市岩槻区笹久保新田 '02.8
笹久保2
道路と交差する笹久保駅付近
さいたま市岩槻区笹久保新田 '06.5

槻寿苑1
槻寿苑前の道路から廃線跡を望む
さいたま市岩槻区横根 '01.10

◆槻寿苑
 上記の地点より北へ行くと、ほどなく老人ホーム「槻寿苑」という施設にたどり着く。この施設に沿って通る道路の一部が、途中で線路跡をトレースするように、かぎ型に曲がっている部分がある。これがまさに武州鉄道の線路跡で、この道路から南側は、民有地が不自然な形で斜めに区切られている様子がはっきりとわかる。写真は、かぎ型に曲がった道路の蓮田側から、神根方向を見たもの。正面の建物が笹久保から続く線路跡で、槻寿苑に沿っているこの道路は、ここで一旦、線路跡と同じ角度に向かって曲がっている。また、これより蓮田側は、槻寿苑の敷地の中を通過した後、工場の敷地に取り込まれてしまっている。


目白大学南1
大学南側に延びる線路跡
さいたま市岩槻区笹久保 '06.5
◆目白大学南側
 槻寿苑から北へ向かうと、平成6年に開設された目白大学の敷地へ取り込まれていく。その間、線路跡が工場などになっているが、目白大学の裏側には、一目見ればそれとわかる線路跡がわずかに残されている。写真の地点は、目白大学の南側から大学方向を望んだもので、長閑な景色の中に砂利道となって線路跡がそのまま残っている様子が見てとれる。この付近は笹久保から浮谷に向かって上り勾配となっており、ここで列車がスリップをしてしまい、立ち往生したことも度々あったという話が文献に残っている。


目白大学1
大学正門から北方向を望む
さいたま市岩槻区浮谷 '01.10

◆浮谷(うきや)・目白大学入口
 上記の地点から北へ進むと、線路跡は目白大学の敷地内に吸収されてしまう。しかし、そのまま大学の敷地を真っ直ぐ突き抜けると、正門から直線道路が延びており、その道路こそが武州鉄道の線路跡であることが明瞭にわかる。大学の入口は、60年前は線路の真上であったということになる。
 この道路の終端部(写真奥、次項の「浮谷(北)」地点)と大学正門(写真手前)とのちょうど中間地点のあたり(写真上でバスが写っているところ)に「浮谷」という駅が存在していた。


◆浮谷(北)
 目白大学正門から北へ延びる取り付け道路は、信号のある交差点で途切れている。この先、線路跡は農地の中へ吸収されてしまっているが、その農地の中に、ほとんど全く手を加えられることなく、線路があった当時のまま放置され、植物に深く覆われている盛り土の跡が残っていた。民有地なのでむやみに立ち入ることは出来ないが、状態が状態なので、漁れば何らかの遺物が出てくるのでは…と思わせるような雰囲気である。

浮谷1
目白大学の方向(南)を望む
さいたま市岩槻区浮谷 '01.10
浮谷2
中央の茂みが盛土の跡
さいたま市岩槻区浮谷 '06.5


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